認知症の患者数は、世界的な長寿命化に伴い、年々増加の一途をたどっています。グローバルで2030年に8,200万人、2050年には1億5,200万人が認知症にかかると予測されており※1、大きな社会課題となっています。
※1 出典:World Alzheimer Report 2018
認知症の中でも、約60%を占めるとされるのがアルツハイマー型認知症です。アルツハイマー型認知症を発症すると、物忘れなどの記憶障害や、時間・場所・人物の認識ができなくなる見当識障害、身体機能の低下、性格や振る舞いの変化などのさまざまな症状が現れ、進行のスピードも個人差が大きいのが特徴です。
一方、医師による問診や認知機能テストだけではアルツハイマー型認知症の診断を下すことが難しいケースがあります。そこで詳しい検査を行うことが必要となるものの、従来の検査方法は費用や身体的負担などの面から容易に実施できるものではありません。また、診断を補助する客観的なデータの取得やそれに基づく認知症の進行度合いの判断が難しいなど、医療現場と患者さんの両者にとって多くの課題があります。
アルツハイマー型認知症は、アミロイドβ(Aβ)と呼ばれるタンパク質が脳にたまり、神経細胞に障害を与えることが原因とされています。
2021年6月にFDA(米国食品医薬品局)の迅速承認を受けたアルツハイマー病の治療薬「ADUHELM™(一般名:アデュカヌマブ)」は、Αβの脳への沈着を低減する効果が認められており、アルツハイマー病の病理に作用する初めての治療薬として、大きな期待が寄せられています。
一方、一度障害を受けた神経細胞は再生できないため、なるべく初期の段階で診断され、治療を始めることが重要であり、そのためには手軽かつ迅速に行うことができる検査方法が望まれています。
シスメックスはこれまで、臨床検査分野で培った研究開発力をアルツハイマー型認知症の領域に活かすべく、検査・診断技術に関する研究を進めてきました。
そして2016年2月から、認知症領域における豊富な経験と知識を持ち、治療薬「ADUHELM™」をアメリカの製薬会社バイオジェンとともに開発したエーザイ株式会社とともに、アルツハイマー型認知症の早期診断や治療薬の選択、治療効果のモニタリングが可能となる次世代診断薬の開発を進めています。
アルツハイマー型認知症の診断には従来、脳内のΑβの蓄積を可視化するアミロイドPET検査や、脳脊髄液を用いた検査が行われてきました。しかし、アミロイドPET検査は検査施設が少ないうえ、保険適用外で高額な費用がかかること、脳脊髄液検査は背中に針を入れて採取を行うことから患者さんにとって負担が大きいため、より侵襲度が低く、頻回に測定できる診断法が必要とされるようになりました。
そこでシスメックスは、患部組織を直接分析する従来の検査方法ではなく、患者さんにとって負担の少ない血液を分析する新たな検査方法の実現に取り組み始めました。自社の全自動免疫測定装置を用いて、血液中のΑβを測定する診断薬を新たに開発。全自動免疫測定装置はすでに多くの病院などで使用されているため、普及もしやすく、より多くの患者さんに検査を届けることができると考えたのです。
「患者さんにとって負担の少ない検査・診断技術を実現することが私たちの使命です」と語るのは、シスメックス中央研究所において、認知症に関する血液診断技術の研究開発に携わる岩永茂樹。2010年頃からΑβを研究し、2016年から本格稼働したアルツハイマー型認知症に関するプロジェクトのリーダーを務めています。
世界各国の製薬会社や研究機関でもアルツハイマー型認知症に関する研究が進められていますが、ここ数年で大きく潮流が変わってきたと岩永は話します。
「Αβは20年ほど前から注目されていましたが、その測定結果と医師による診断結果が一致しないケースが多く、Αβはアルツハイマー型認知症の検査には有用ではないと言われてきました。しかし2018年に発表された研究論文において、血液中のΑβを正確に測定することで脳内のΑβの蓄積を確認できるという報告がなされ、一気に風向きが変わったのです」。こうした外部環境の変化もあり、シスメックスにおけるアルツハイマー型認知症の研究は年々加速しています。
開発には、当初中央研究所のメンバーのみが参画していたものの、1年、2年と時を経て研究の成果が積み上がるにつれ、他部門のメンバーも巻き込んだ部門横断のプロジェクトへと成長しました。
患者さんの力になりたい——。岩永の想いは決してぶれることはありませんが、本当に成功するのか最後まで分からないのが研究開発の難しさ。しかし、社内のメンバーたちも「私たちの取り組みによって患者さんやご家族の不安を少しでも減らしたい」「血液検査で手軽に検査・診断ができるようになれば世界が大きく変わる」と、可能性を信じて前向きに取り組んでいることが、岩永にとって大きな力となっています。
2021年に入り開発がさらにスピードアップ。忙しい日々を過ごす岩永ですが、何よりのモチベーションとなっているのはやはり、患者さんへの想いです。
「治療薬の処方には検査が必須です。私たちの検査・診断技術があれば、より多くの方が検査の機会を得ることができ、早期の治療へとつながっていくことが期待されます。特にご高齢の患者さんにおいて早期発見・早期治療を実現できれば、発症を抑えたまま天寿を全うされる方も増えていくと考えています。多くの方が長く元気に生きられる社会が来ることを想像するだけで、自然と力が湧いてくるんです」
また、アルツハイマー型認知症の新たな検査・診断技術は、患者さんだけでなく周囲の人々への貢献にもつながると岩永は考えています。
「患者さんがご高齢の方の場合、日常のあらゆる場面でサポートを必要とされることが多く、そのご家族やお子さんなど若い世代の方が思うように働けなくなるといったことが想定されます。また、自分の大切な人の認知機能が低下していくのを間近で見るというのは、本当につらいことです。病気を早期に発見できれば、そうしたケースを少しでも減らすことができると考えています。また、定期的な健康診断でコレステロールや血糖値と同様にΑβを測定するような時代が来れば、この病気との付き合い方も大きく変わっていくでしょう。私たちの研究開発は患者さんだけでなく、ご家族や周囲の方々の幸せにも貢献できるものだと考えています」
岩永たちが取り組むアルツハイマー型認知症の次世代診断薬の開発は、今まさに薬事申請へと着実に歩みを進めています。さらにその先の将来を見据え、岩永はかなえたい夢について語ります。
「アルツハイマー型認知症以外にも、脳神経系の疾患によって年齢に関係なく生活の質が低下してしまう方が大勢います。これまでは脳の情報を血液検査で確認することは非常に難しいとされていましたが、Αβを血液で測る今回の技術が確立できれば、脳の情報を血液で正確に測定できるという一つの指標になりうるでしょう。病名が分かっている方だけでなく、原因不明の病気に悩んでいる方も助けられるような検査・診断技術を生み出していくことが、これからの10年、20年をかけての私の夢です」
また、今回の共同開発を通じて、外部との連携強化の重要性も実感したと岩永は話します。
「製薬会社をはじめ外部の方ともオープンマインドで積極的に関係を構築していきたいです。そうすることで、さまざまな知見や情報を組み合わせ、新たな治療薬や検査・診断技術の創出につながるのではと期待しています。また、検査方法の確立や提供にとどまらず、いかに健やかな人生を送れるか、より良い医療環境を実現できるかという観点で、世の中全体をデザインしていくことも重要だと考えています。最近では、患者さんが検査や治療を受ける際のより良い医療環境の実現に向け、治療に金銭的な負担が大きい病気に関する保険のあり方について、保険会社の方とも意見交換を行っています。まずは、アルツハイマー型認知症の新たな検査方法を確立して世の中に広く提供し、適切な治療へとバトンをつないでいくこと。さらにその先でも研究開発を発展させ、より多くの方の笑顔に貢献していきます」
岩永たちのたゆまぬ努力と情熱は、シスメックスが目指す、事業活動を通じた社会貢献のあり方をまさに体現しています。今後もシスメックスは、患者さんやご家族、医療従事者への想いを胸に、「ヘルスケアの進化をデザインする。」というミッションの実現に取り組んでいきます。